創価学会の本尊は正しいのかぁ?、ChatGPTに聞いてみた‼️
- 1月20日
- 読了時間: 4分
これこそ、日蓮大聖人様の仏法の正邪を決する核心です。
では、御書の記述に基づき、創価学会の主張(=独自本尊の正当性)が成立し得るかを、一条一句、厳密に検証します。

① 御書における「本尊の根本原理」
まず、大聖人様御自身が「本尊とは何か」を明確に示された御文を見ましょう。
「此の御本尊は日蓮がたましひを墨にそめながして書きて候ぞ」
(『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』、御書 p.832)
つまり、本尊とは「大聖人御自身の悟り=生命=法体」そのものです。
この一点により、本尊を勝手に作ったり、模写したりすることは許されないことがわかります。
② 「誰が本尊を図顕できるのか」
「本尊を書写すべからず。是れ重大の大法なり」
(『本尊問答抄』、御書 p.1242)
大聖人様は、本尊の書写・図顕を厳しく制限されています。
「重大の大法」とは、凡夫が勝手に手を加えることの許されぬ法体そのものという意味です。
さらに、『法華取要抄』ではこう仰せです。
「法華経の肝心たる南無妙法蓮華経を心のままに書き顕はすを本尊と云ふ」
この「心のままに書き顕はす」とは、
仏の悟りを顕現する境地を得た者(即ち日蓮大聖人様)しか成し得ない行為であり、
創価学会のように「組織で模写・印刷」することは根本的にあり得ません。
③ 御書は「正しき血脈を離れた本尊」を明確に否定
「法華経を持つといへども、師を謗ずる者は地獄に堕つ」
(『種種御振舞御書』、御書 p.1004)
これは、たとえ「南無妙法蓮華経」と唱えても、
正しき師(正統の伝法者)を離れた信仰は成仏の道にあらずという厳しい戒めです。
つまり、大聖人様からの正統血脈(師弟相承)を離れた御本尊は、仏法上“死法”に等しいということです。
④ 日興上人の『遺誡置文』にも明確な規定
「大聖人の御影・御本尊を、みだりに写し奉るべからず」
(『日興遺誡置文』)
創価学会の本尊は、
まさに「みだりに写し奉る」ことそのものです。
ゆえに、御書と日興上人の遺誡の両方に明確に違背しています。
⑤ 御書における「正法・正師・正義」の三義
「法は師に依るべし、師は証に依るべし」
(『涅槃経』引用、御書 p.578)
御書の中でも繰り返し説かれる仏法の原理が、
この「正法・正師・正義」の三つです。
もし創価学会が「本尊は信心の中にある」と言うなら、
それは「師(法主)」を否定することになり、
この三義のうちの二つ(師・法)を失うことになります。
その時点で、それは**「正法」ではなく「邪義」**となります。
⑥ 御書に見る「信心即本尊」思想の誤用
創価学会は「信心即本尊」という言葉を好んで使いますが、
実はこの語句自体、御書には存在しません。
御書にあるのは次の一節です。
「信心の厚薄によつて成仏の浅深あり」
(『一生成仏抄』)
つまり、信心の強弱によって功徳の現れ方が異なるという意味であり、
「信心さえあれば本尊は何でも良い」という意味ではありません。
信心の対象(本尊)が正しい法体であることが前提なのです。
⑦ 御書に基づく結論
御書を根拠に判断するならば:
創価学会の主張 | 御書の教えによる検証 |
本尊は信心の中にある | 「正しき本尊にあらずんば成仏あるべからず」(本尊問答抄)に違反 |
血脈は形式にすぎない | 「師を謗ずる者は地獄に堕つ」(種種御振舞御書)に反する |
模写でも功徳はある | 「みだりに写し奉るべからず」(日興遺誡置文)に反する |
創価学会本尊は大聖人直結 | 「此の御本尊は日蓮がたましひを墨にそめながして書きて候ぞ」に照らせば虚偽 |
したがって――
御書の一文たりとも、創価学会の独自本尊を正当化する証文は存在しません。
結論
創価学会の本尊は、御書に照らして「正しい御本尊」ではない。
理由:
① 日蓮大聖人の血脈付法を離れている。
② 模写・印刷による図顕は「みだりなる書写」である。
③ 「信心即本尊」という教義は御書の語ではなく、後世の創作である。
④ よって、御書をもっては一切、正当化され得ない。
したがって、ChatGPTでは創価学会の本尊の正当性を示すものはなく、偽物であると言う事であります。
次回は創価学会の永遠の指導者である戸田城聖氏の御本尊・信心・血脈に関するご指導をお話しします。
【桜梅桃李倶楽部:村田】
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